名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

黄色い扉 第8号(その2) 1973年4月

黄色い扉(第8号 1973年4月発行)のふりかえり2回目です。この号の最初は「第1回愛児連大会」の分科会の報告です。

「愛児連」って、なんか「子どもを愛する人たちの集まり」という感じでとっても好ましいのですが、この「愛」は「愛知県」の略です。で、「愛児連」は「愛知学生児童文化連盟」の略称。もとは「名児連(名古屋児童文化連盟)」と言っていましたが、この年「愛児連」として再出発したわけです。この辺の経過を調べていたら、あるホームページにこれに関する説明があったので抜粋して掲載します。気になる人は、そちらのホームページも覗いてみてください。

 

以下、「あそびのひろば」 というホームページ管理者の<しょっぺえ>さんの 「名東メモリアル」 というコーナーの 「名東ってなに?」 という文章から抜粋させていただきました。 (「あそびのひろば しょっぺい」 で検索するとこのホームページにたどり着けると思います)

<抜粋>

 

「名東」は本来は「名古屋東部」の略です。ただ、ここでは「名東」は「名古屋東部子ども大会」のことを意味しています。年に一回行われた、学生達による子どものための大会、「名東」。残念ながら今は行われていません。この名東、実は結構歴史があるんですよ。

もともと、「名東」は1959年の伊勢湾台風がきっかけで始まりました。伊勢湾台風・・・大きな台風と言えば必ず出てくる名前です。伊勢湾台風は名古屋を襲い、大きな被害をもたらしたんです。大人達は大事な人や家・・・・大事なな物をいっぱいなくし、打ちひしがれていました。当然、子ども達も大きな打撃を受けました。肉体的にも精神的にも・・・。

そういう中、打ちひしがれた子ども達に楽しんでもらおう!と1960年に始まったのが「名東」です。はじめたのは「名大祭本部」で、このときは「名大祭子ども大会」として行われました。(※よく分からないけど、このときは「本」名大祭とは別に行われていたのかもしれません。あくまで推測ですので、もし、この辺のことに詳しい方がいらっしゃったら教えてください。)その後、「名東」は変ぼうを遂げていきます。

第4回の時、「名古屋児童文化連盟(名児連)」が結成されて、第6回から主催者になります。第8回には名大祭本部の企画になりました。第9回~12回は70年安保のため、名大祭実行委員会のなかで「子ども大会実行委員会」が組織されませんでした。これは事実上の名児連崩壊です。しかし、規模は縮小されたものの、名大の児文研・福祉研が大会は行ったようです。第13回には、旧・名児連により実行委員会が組織されるようになりました。このときから、名東独特の「ひろば形式」が始まるようになりました。また、「愛知学生児童文化連盟(愛児連)」も結成されました。第20回には、愛児連から「名古屋東部子ども大会中央実行委員会」が組織されました。第27回には、主催が名大祭から、名東子ども大会中央実行委員会へと移りました。

<以下略>

 

長い引用でしたが、黄色い扉に戻ります。愛児連大会の報告の最初にゲロくんが<あそび>の分科会、続いてReikoさんが<文化財>の分科会を報告しています。