名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

黄色い扉 第10号(1973年9月発行)その7

名古屋大学児童文化研究会が1970年代に発行した機関誌「黄色い扉」を振り返っています。今振り返っているのは、1973年の、おそらく9月に発行された第10号。なかなか内容が充実していて、7回目ですが、まだ最終ページにたどり着きません。

今回掲載するのは、マチュキちゃん、DonDonのふたりの原稿です。マチュキちゃんは、この黄色い扉を発行していた書記局の苦労を書いてます。DonDonは大学の授業・講義の在り方についていろいろ書いている。今読んでも、ちょっと考えさせられる投稿だと思います。






 

 

黄色い扉 第10号(1973年9月発行) その6

またしても、さぼりにさぼって前回から2カ月半たってしまいました。年度末が近づいて、いろいろとありまして、と言い訳しても仕方ありませんが、「早く更新しなくちゃ」と気にはなっていたのですが・・・という事でお許しください。

さて、今回は1973年発行の黄色い扉の振り返り、第6回目です。今回の内容は充実している。とっても力が入っています。今回紹介するのは、Reikoさん、ナカムラくんの夏合宿の総括、そして、「でました~格調高く(?)」と銘打っている白井靖敏君の「全国児童文化会議高知大会報告」です。

 

黄色い扉 第10号(1973年9月発行) その5

1973年9月発行の名大児文研機関誌「黄色い扉」を振り返ってます。5回目です。この号は、どういうわけか充実している。暇な人がいたのでしょう。それにしても、今からちょうど50年前。もう半世紀にもなるのですね。信じられません。

さて、今回は、ゾゾ君、ゲロ君、みーちゃんの3人分をアップします。夏の愛郷・布里合宿の総括文です。この合宿では、「地域班・創造班の合同実践」をしたらしく、ゾゾ君もゲロ君もこの点について前向きに触れています。みーちゃんが「不思議に充実していた」と言っているのも、この合同実践が関係しているのかもしれません。

 

黄色い扉 第10号(1973年9月発行) その4

長い間お休みしていました。単に手がつかなかっただけです。かれこれ2カ月近くさぼっていました。

「黄色い扉」の第11号の紹介。その4回目です。夏合宿の総括が続きます。ウータン、ズン、キチローの3人分です。キチローさんは、ぼくたちの先輩で、1970年入学の方だったと思います。きわめて物静か、かつ真摯な方で、あの方からもっと学んでいれば、私ももう少ししっかりした人間に成長できたのではないかと、いまさら遅いのですが反省しております。

 

黄色い扉 第11号(1973年9月発行)その3

なかなかブログの更新ができません。前回は9月4日だったので、「日記」というよりは「月記」になっています。

今回は1973年9月発行の「黄色い扉」の紹介。それにしても、名大児文研のサークル室の扉を黄色く塗ったのは誰でしょうかね。そのときのことを先輩から聞いたような気もしますが、詳しいことは覚えていません。全面黄色く塗るというのは、当時はあまりない発想ですから、なんか曰くがあるのかもしれませんね。

さて今回も「夏合宿または前記の総括」の文章。URARA、タカ、サッサの3名分、8ページです。特にサッサ君の文章は合宿前から書き始めて、合宿の記述は日記形式。本人とサークルの動きがよくわかって面白い。

 

黄色い扉 第11号(1973年9月発行) その2

暑い夏でした。残暑も厳しそうです。夏の暑さとは関係ありませんが、更新が進みませんでした。月1回のペースになってしまいました。いかんいかん、頑張らにゃ。今日は、1973年9月に発行された名古屋大学児童文化研究会の機関誌「黄色い扉」のふりかえりの2回目です。

今回は、名大児文研の「夏合宿」の自己総括です。ヤッコ、ガンタ、HATCHIの分、計4ページです。ヤッコは、海老小での公演の司会をしたことを語っています。「穴があったら入りたい」気持ちだったと・・・。ただ、僕には「海老小」という名前がなつかしかったですね。ガンタは「毎年同じ土地に入っていくもとの意義が少しわかったような気がした」と言っています。この鳳来寺町(布里地区その他)での夏合宿は、ぼくが入部したときにはすでに行われていたが、ここで地域活動や人形劇の巡回公演をするようになったいきさつを、先輩にあまり聞かなかったのが少し悔やまれます。県教委の紹介だったという話は聞いたような気がしますが、真偽のほどはわかりません。HACCHIさんは遅れて一人でやってきたのですね。途中でゾゾさんに会ってホッとしたと書いてあります。僕も遅れて参加になって、合宿所(まんじゅう屋・・・空き家だったけど)のそばまで行くバスがもうなくて、川に沿ってとぼとぼと夜道を長時間歩いたことが思い出されます。まあ、ぼくの場合も連れがあってよかったのだけど。

 

黄色い扉 第11号(1973年9月発行)その1

前回のブログで、「黄色い扉の手持ちのものはもう無くなった」と書きましたが、僕の勘違いで、もう1冊ありました。1973年6月発行の第10号(2023.2.26~ UP)の次は、1974年10月ころ発行の第?号(2023.6.27~ UP)で、それが手持ちの「黄色い扉」のすべてかと思っていたのですが、1973年10月発行の第11号が手元にあったのです。

そして、この11号、思いのほか充実していました。なんといっても「夏合宿」の総括が掲載されているのが懐かしい。あと、「全国児童文化会議高知大会報告」、DonDonさんの「名大教養部の授業内容に思う」という珍しい文章、TAROちゃんの「七三なつあき」という文章が載っていたりします。結構充実しているのです。書記局よく頑張ったという感じです。

今回は、表紙と目次の二ページのみ紹介です。表紙の隅に「くがく」と書いてありますが、9月発行なので「くがつ」にかけて「くがく」、そして「苦学」をかけてあるということでしょう。このガリストは地方から来た貧乏学生だったと思われます。当時は、まだ「苦学生」という言葉が生きていたのですね。