名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読(12)

前回からすでに20日。あっという間に時は過ぎていきます。今回は、61ページから70ページです。印刷が不鮮明で、読みにくいですが、何とか目を通しました。

昭和41年(1966年)の記事が続きます。名児連は、昭和39年に発足しましたが、この年、名大児文研が事務局を引き受けて、積極的に活動を盛り上げようという方針を持っていたようです。61ページには、「8月16日から18日までの3日間、第1回キャンプが根の上高原で約50名の参加者を得て行われ、名大から(男15名、女9名)24名の参加者があり、すばらしいキャンプとなった」との記述があります。飯盒炊爨、キャンプファイヤー、フォークダンス、「ハイスカズンバ ズンバ ズンバ」などのフレーズで知られる「ハイツカ」、ゲームなどの光景が目に浮かぶようです。いまでもこういう光景はあるのだろうか・・・とふと思ったりもします。

66ページから70ページにかけて愛郷・布里の活動(夏合宿)の記述が続いていて、とても具体的かつ詳細な記録になっています。愛郷は3回目、布里は初回とに記述があり、期間は、愛郷が7月26日から8月1日、布里は7月27日から8月2日までと記述されてます。70ページには、「先生との話し合い」の項目がありますが、僕たちの時代(このころから5年以上後)には、すでに先生方との交流はなかったように思います。布里地区では、「校長先生との話し合い」の時間もあったようですが、71ページまでまたがっているので、続きは次回になります。

 

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読(11)

こちらの地域、約1時間ほどですが猛烈な風と雨でした。大雨、雷、竜巻などに注意という報道があってしばらくしたら、外を眺めているのが怖いほどの風雨。被害が出るほどではなかったですが、数百メートル先に落雷があった時には肝を冷やしました。全国的にも、最近は「ゲリラ豪雨」の報道が多いです。

さて、今回は、「名大児文研のあゆみ」の51ページから60ページまでを掲載します。55ページはありませんでした。付番の時にミスをしたものと思われます。気が付いたこと。昭和41年(1966年)3月27日から30日まで「春合宿」を行っています。「篠島にて」となっています。以前書いたように、自分たちは春の合宿も、秋の合宿も佐久島だったので、篠島でやっていたこともあったんだーと知り、当時、先輩に経験談をもっと聞いておくのだったと、少々悔やむ気持ちがわきました。また年度が替わった4月4日に「旧部員ハッスルコンパ」なるものが開かれていますが、どんなだっただろうと想像が膨らみます。6月12日には「第7回名大祭子ども大会」が開かれています。53ページの「(子ども大会の)まとめ」には、「子ども、学生、母親 約2千名の参加をもって4つの会場をうめつくし、これまでよりさらに新しい企画、展示、人形劇の部屋を取り入れ内容も豊かになった。」との記述があります。当時の活気あふれるキャンパスの様子が目に浮かぶようです。58ページから昭和41年前期の記録が始まります。

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (10)

暑くなってきました。今年の6~7月は比較的涼しい日が多い・・・と思っていたら、案の定、急激に猛暑日がやってきそうです。台風は多いし強いし、ということで、いつもの温暖化への嘆きです。

今回は、「名大児文研のあゆみ」の41ページから50ページまでの再読・紹介です。この小冊子、すごくしっかりと記録や分析がなされていて、記事10回目、50ページにして、やっとサークル創設から2年目の後半に入るという感じです。41ページに面白い記事がありました。「エピソード 3」との見出しがあり、コラムのようです。結成から1年半が過ぎたものの、部の雰囲気が、新入部員の発言が少なく明るさに欠けると感じられていた。そんな時、看学の1年生から「X氏への手紙」という取り組みの提案があったという話です。部会終了後、他の部員の名前が書かれた封筒が2枚づつ配られて、次の部会までにその人に手紙を書いて、次の部会の時に宛名の人に渡す、そんな企画だったようです。ラブレター以上にわくわくしたと筆者は書いています。青春ですなー。そしてサークル員の相互理解も深まったと・・・めでたしめでたしです。いい企画です!まあ、今だったら、ラインのサークル員グループトークでいろいろと情報交換するのでしょうが・・・。でも、この企画の良さは、相手が二人に絞られていて、しかも、手紙という形式で通信の秘密が守られていたということでしょう。中には、そっと恋心を吐露したサークル員もいたのではないかと想像したりします。

名大児文研は、このころすでに、他団体の集会や研究会に積極的に参加していたことがうかがえます。昭和40年(1965年)12月28~29日に「子どもを守る文化会議」(日本子どもを守る会主催)に参加した伊藤憲子氏、加藤慧子氏の報告があります。「自主的な子ども、平和を愛する子ども、仲間を大切にする子どもにしていくために邪魔になるものをどうしたらとり除くことができるか、又、私たちはどういう態度をとったらよいのかを考えなくてはならない」と書いておられますが、いまなお新鮮かつ切実な訴えとして響いてきます。

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (9)

今回は、1か月経過する前に手をつけられました。1968年に編集された「名大児文研のあゆみ」の再読です。31ページから40ページまで振り返ります。やはり少々読みにくいですがご容赦を。

この部分の多くを占めているのが「第3回東海地方人形劇フェスティバル 人形劇分科会レポート提出」という見出しがある部分です。第2回の時は公演を見ただけだったが、第3回では実行委員も選出して公演への参加や分科会で脚本と演出についてのレポートも引き受けるなどしたようです。上演した人形劇は「コマ吉とモグラ」だったようです。現在は「東海地方人形劇フェスティバル」という催しは開催されていないようですが、検索すると、北なごやパペットフェスタ、かすがい人形劇フェスティバルなどが見つかります。これらの人形劇フェスティバルと、あゆみに記述されている「東海地方人形劇フェスティバル」との関連は不明です。

 

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (8)

5月に「猛暑日」が! こんな時代の到来を、あのころの自分は予測していただろうか? 50年前、確かに名古屋の夏は暑かったが、しかし、これほどの気候変動は予測していなかった。まあ、あんまり暑いと、夜中に、教養部の前にあった「プール」にサークル員と忍び込んで泳いだりしたこともありましたが( ^ω^)。

ところで、今回は「名大児文研のあゆみ」の再読8回目です。21ページから30ページまでアップします。第Ⅲ期(昭和40年6月から12月まで。第Ⅲ期は46ページまでなので、あと2回ぐらいはかかると思います)となっています。中心は第2回愛郷夏合宿で、合宿後の総括会議で話し合われた分析結果が詳しく書かれています。31ページ以降も続くので、次回は第2回愛郷夏合宿の分析の後半から始まる予定です。なお、この夏合宿にかかわって「看護学校寮閉鎖闘争」の一項が作られています。サークルの中で、看護学校のサークル員の抱える問題についても考えていかねばならないという姿勢がうかがえて、当時は、仲間意識とか連帯とかを大切にしていたとあらためて思います。

 

「名大児文研のあゆみ」(1968年 「児文研の歴史」委員会編集)再読 (7)

またまた間があきました。季節はすでに初夏。ただ、まだ4月中旬なのですが・・・。地球の温暖化は、とどまるところを知りません。人類には、人間の欲望や行動をコントロールする術はないのでしょうか? アメリカ大統領が、他国をいきなり武力攻撃するよう命ずるとは、温暖化以上の脅威を感じます。日本の行く末にも不安が増すばかりです。

さて、今回は、11ページから20ページまでの紹介になります。昭和39年(1964)~40年(1965)にかけてにあたります。東京オリンピックの頃ですね。印刷物の一部はほぼ読み取れないという印刷の悪さですが、これでも画像処理で、少しは読めるようになったもので、お許しを頂きたい。

13ページに、「部員の不満や意見の反映をはかる為に『たわごと』というノートをおいて自由に皆が書き合うことにした」という記述がありますが、自分が入部したころにも、古い「たわごと」なるノートが残っていたように思います。また、当時はこういう「交換日記」的なものを書き記して回覧することが普通に行われていた。今では「グループライン」にあたるものでしょうか? 昭和40年(1965)の新入生勧誘の様子も書かれていて、苦戦している様子も感じられますが、12名だった部員が20名に倍化したと書かれていました。そして、コンパ! 我々の時代と変わらぬ流れです。

 

1968年編集「名大児文研のあゆみ」(6)

1968年に編集された「名大児文研のあゆみ」という小冊子を振り返っています。小冊子と言いましたが、100ページ以上にも及ぶガリ刷りの大作ではあります。名大児文研の発足が1964年2月なので、4年余りで発足からの歴史をまとめておいてくれたのはすごいと思います。歴史を書き残すことの重要性を認識していた先輩たちの思いを受け継ぐためにも、何とか形のあるものとして残したいという気持ちでブログにアップしています。

今回アップするのは児文研発足年の7月、全国学生集会の記録(5ページ)から、児文研第2回総会の冒頭(10ページ)までです。全国学生集会には児文研から代表2名が参加したとなっています。「この大会を契機に全国の学生戦線の統一は急速に進み、同年12月10日に全学連は再建され、それに伴い平民学連は発展的解消をした」と記述されていますが、学生運動盛んな頃で、児文研の部員も無関心ではいられなかった、あるいは、積極的に参加しようとしていたと思われます。

今回、児文研の歴史で「そうだったのか」と思ったのは、夏合宿を計画するにあたって「部員の親睦と子どもに接するということを主目的とし、県内の僻地という案が出た」「南設楽郡鳳来町の愛郷小学校へ役場を通じて紹介を頼んだ」という記述があったことです。愛郷布里の合宿の出発点は、児文研発足の年にあったのですね。