名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (10)

暑くなってきました。今年の6~7月は比較的涼しい日が多い・・・と思っていたら、案の定、急激に猛暑日がやってきそうです。台風は多いし強いし、ということで、いつもの温暖化への嘆きです。

今回は、「名大児文研のあゆみ」の41ページから50ページまでの再読・紹介です。この小冊子、すごくしっかりと記録や分析がなされていて、記事10回目、50ページにして、やっとサークル創設から2年目の後半に入るという感じです。41ページに面白い記事がありました。「エピソード 3」との見出しがあり、コラムのようです。結成から1年半が過ぎたものの、部の雰囲気が、新入部員の発言が少なく明るさに欠けると感じられていた。そんな時、看学の1年生から「X氏への手紙」という取り組みの提案があったという話です。部会終了後、他の部員の名前が書かれた封筒が2枚づつ配られて、次の部会までにその人に手紙を書いて、次の部会の時に宛名の人に渡す、そんな企画だったようです。ラブレター以上にわくわくしたと筆者は書いています。青春ですなー。そしてサークル員の相互理解も深まったと・・・めでたしめでたしです。いい企画です!まあ、今だったら、ラインのサークル員グループトークでいろいろと情報交換するのでしょうが・・・。でも、この企画の良さは、相手が二人に絞られていて、しかも、手紙という形式で通信の秘密が守られていたということでしょう。中には、そっと恋心を吐露したサークル員もいたのではないかと想像したりします。

名大児文研は、このころすでに、他団体の集会や研究会に積極的に参加していたことがうかがえます。昭和40年(1965年)12月28~29日に「子どもを守る文化会議」(日本子どもを守る会主催)に参加した伊藤憲子氏、加藤慧子氏の報告があります。「自主的な子ども、平和を愛する子ども、仲間を大切にする子どもにしていくために邪魔になるものをどうしたらとり除くことができるか、又、私たちはどういう態度をとったらよいのかを考えなくてはならない」と書いておられますが、いまなお新鮮かつ切実な訴えとして響いてきます。

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (9)

今回は、1か月経過する前に手をつけられました。1968年に編集された「名大児文研のあゆみ」の再読です。31ページから40ページまで振り返ります。やはり少々読みにくいですがご容赦を。

この部分の多くを占めているのが「第3回東海地方人形劇フェスティバル 人形劇分科会レポート提出」という見出しがある部分です。第2回の時は公演を見ただけだったが、第3回では実行委員も選出して公演への参加や分科会で脚本と演出についてのレポートも引き受けるなどしたようです。上演した人形劇は「コマ吉とモグラ」だったようです。現在は「東海地方人形劇フェスティバル」という催しは開催されていないようですが、検索すると、北なごやパペットフェスタ、かすがい人形劇フェスティバルなどが見つかります。これらの人形劇フェスティバルと、あゆみに記述されている「東海地方人形劇フェスティバル」との関連は不明です。

 

「名大児文研のあゆみ」(1968年 児文研の歴史委員会編集)再読 (8)

5月に「猛暑日」が! こんな時代の到来を、あのころの自分は予測していただろうか? 50年前、確かに名古屋の夏は暑かったが、しかし、これほどの気候変動は予測していなかった。まあ、あんまり暑いと、夜中に、教養部の前にあった「プール」にサークル員と忍び込んで泳いだりしたこともありましたが( ^ω^)。

ところで、今回は「名大児文研のあゆみ」の再読8回目です。21ページから30ページまでアップします。第Ⅲ期(昭和40年6月から12月まで。第Ⅲ期は46ページまでなので、あと2回ぐらいはかかると思います)となっています。中心は第2回愛郷夏合宿で、合宿後の総括会議で話し合われた分析結果が詳しく書かれています。31ページ以降も続くので、次回は第2回愛郷夏合宿の分析の後半から始まる予定です。なお、この夏合宿にかかわって「看護学校寮閉鎖闘争」の一項が作られています。サークルの中で、看護学校のサークル員の抱える問題についても考えていかねばならないという姿勢がうかがえて、当時は、仲間意識とか連帯とかを大切にしていたとあらためて思います。

 

「名大児文研のあゆみ」(1968年 「児文研の歴史」委員会編集)再読 (7)

またまた間があきました。季節はすでに初夏。ただ、まだ4月中旬なのですが・・・。地球の温暖化は、とどまるところを知りません。人類には、人間の欲望や行動をコントロールする術はないのでしょうか? アメリカ大統領が、他国をいきなり武力攻撃するよう命ずるとは、温暖化以上の脅威を感じます。日本の行く末にも不安が増すばかりです。

さて、今回は、11ページから20ページまでの紹介になります。昭和39年(1964)~40年(1965)にかけてにあたります。東京オリンピックの頃ですね。印刷物の一部はほぼ読み取れないという印刷の悪さですが、これでも画像処理で、少しは読めるようになったもので、お許しを頂きたい。

13ページに、「部員の不満や意見の反映をはかる為に『たわごと』というノートをおいて自由に皆が書き合うことにした」という記述がありますが、自分が入部したころにも、古い「たわごと」なるノートが残っていたように思います。また、当時はこういう「交換日記」的なものを書き記して回覧することが普通に行われていた。今では「グループライン」にあたるものでしょうか? 昭和40年(1965)の新入生勧誘の様子も書かれていて、苦戦している様子も感じられますが、12名だった部員が20名に倍化したと書かれていました。そして、コンパ! 我々の時代と変わらぬ流れです。

 

1968年編集「名大児文研のあゆみ」(6)

1968年に編集された「名大児文研のあゆみ」という小冊子を振り返っています。小冊子と言いましたが、100ページ以上にも及ぶガリ刷りの大作ではあります。名大児文研の発足が1964年2月なので、4年余りで発足からの歴史をまとめておいてくれたのはすごいと思います。歴史を書き残すことの重要性を認識していた先輩たちの思いを受け継ぐためにも、何とか形のあるものとして残したいという気持ちでブログにアップしています。

今回アップするのは児文研発足年の7月、全国学生集会の記録(5ページ)から、児文研第2回総会の冒頭(10ページ)までです。全国学生集会には児文研から代表2名が参加したとなっています。「この大会を契機に全国の学生戦線の統一は急速に進み、同年12月10日に全学連は再建され、それに伴い平民学連は発展的解消をした」と記述されていますが、学生運動盛んな頃で、児文研の部員も無関心ではいられなかった、あるいは、積極的に参加しようとしていたと思われます。

今回、児文研の歴史で「そうだったのか」と思ったのは、夏合宿を計画するにあたって「部員の親睦と子どもに接するということを主目的とし、県内の僻地という案が出た」「南設楽郡鳳来町の愛郷小学校へ役場を通じて紹介を頼んだ」という記述があったことです。愛郷布里の合宿の出発点は、児文研発足の年にあったのですね。

 

1968年編集「名大児文研のあゆみ」(5)

前回、年が明けたら「名大児文研のあゆみ」の振り返り作業に手をつけるぞ、などと決意をしたのですが、何もせずに年が明けて既に23日。これは情けないと、ようやく腰を上げて、1968年につくられた「名大児文研のあゆみ」のすべてのページをスキャンしました。かと言って、すぐに全ページ掲載できるわけではありません。スキャンした生のデータは、とても読めたものではなく、画像処理で鮮明にしないといけません。これがまた手間がかかる。もっとも、手元にある画像処理ソフトは、Windowsのフォトぐらいしかないので、画像処理したとしても読みにくさはそれほど改善されないのですが。ということで、これからしばらく、「名大児文研のあゆみ」の本文部分を少しづつアップしていきます。

1ページ目は、<第1章 我々をめぐる情勢 (昭和38年~昭和40年5月)>から始まっています。書き出しは、すでに歴史となった大管法闘争と愛知県学連の再建からです。当時の学生の気分や通底していた意識というものがうかがえます。さらに「また名大においては、ようやくタコ足大学から脱出ーすなわち、農・医を除いて東山に統合された時でもあった」とあり、「このような時期に我々は名大に入学した」とも記述されています。ちなみに、グーグルで東山キャンパスについて検索すると、次のような回答が表示されました。名古屋大学の東山キャンパスは、1939年(昭和14年)の名古屋帝国大学設立以降、順次整備が進められました。旧制高等教育機関の移転を経て、1950年代から60年代にかけて文学部や教育学部などの移転が本格化し、1963年(昭和38年)に名城キャンパス(旧制名古屋高等商業学校跡)から文学部三号館を残してほぼ移転が完了しました。 」

 

1968年編集「名大児文研のあゆみ」(5)・・・じゃなくて

ずいぶん間があきました。なかなか進みません。時間はあるのですが、さあやろうと立ち上がる気力に欠けています。「名大児文研のあゆみ(1968年編集)」を振り返っていましたが、スキャンするのに結構手間がかかるものですから、などと言い訳です。年が明けたら手を付けましょう。

というわけで、一つ二つ話題を。今年の8月25日付のブログで、古い資料を綴じていた金具について触れました。調べてみると、名称があって、「割ピン」と言うのだそうです。しかも、現在でも販売されている。

写真が大きくなりましたが、現在でも現役なのですね。びっくりしました。

それと、話題をもう一つ。前回(11月6日)アップした記事(初期の頃の活動記録)を眺めていて、そうだったよなーと思ったのが、いろいろな集会やら子ども会やらコンパ(若い人は「コンパ」わかるかな?)の会場に、「寺院」を使うことが結構あったのだという事です。そういえば、70年代の初頭、僕が入部したころもお寺を使って合宿やら集会やらをしていたように思います。布団は今でいうレンタルを使っていました。今は、学生がお寺で集会やらなんやらをするという事はないのでしょうね。懐かしい思い出です。

今年もあとわずかです。来年は、社会が平和と民主主義を目指してまとまった動きをとれる、そういう年になってほしいなと思います。よいお年を!