名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

黄色い扉 第9号(1973年5月発行) その6

1970年代の名大児文研の機関誌「黄色い扉」の振り返りです。第9号の第6回目。第9号と言っても、今数えてみると9番目になるという意味で、当時「第〇号」と意識して発行していたわけではありません。それと、手元にあるものを振り返っているだけなので、もしかすると抜けている号があるかも、とも思います。

さて、今回は「第9号」の6回目。最終ページまでの紹介になります。ゾゾ君の「新しき者たちに」という自由投稿と、まちゅきちゃんの「愛知子どもまつりで感じたこと」です。愛知子どもまつり・・・懐かしい。今はもうやってないと思うけど・・・。まあ、いい時代でした。

あとは書記局からのお知らせ。当時の「学生運動」の闘いの課題だった「小選挙区制」「筑波(大学)法案」について、「みんなで考えよう!」なんて書いてあります。小選挙区制は、何度か廃案になりながら・・・ゲリマンダーをもじって、ハトマンダー、カクマンダー・・・などと呼んでましたね・・・1994年についに導入されてしまった。今考えても、民意を反映せず、政権政党に有利、という傾向は紛れもない事実ですし、政権政党が圧倒的多数を獲得して、強権的に暴走する可能性があるので何とかならないかと思います。

あと、裏表紙に「花には太陽を こどもらには平和を!」などというスローガンが載っています。これもなつかしい。児文研の活動の中では、たびたびこのスローガンが登場しました。日本子どもを守る会のスローガンだったようですが、子どもを守る会の結成当時(1952年)からのスローガンかどうかは不明です。そういえばそういう題の歌もあったなあ。木下そんきさんの作詞作曲です。よく歌いました。

 ふりそそげ春の陽 育ち行け青草 美しい故郷に 二度と戦を許すな
  花には太陽を 子どもらには平和を
 貧しい暮らしにも 負けない子どもらの 幸祈るその胸に 思い起こそう広島を
  花には太陽を 子どもらには平和を
 進みゆけ娘ら 愛らしい戦士よ 今こそ力もて 祖国の若樹を守れ
  花には太陽を 子どもらには平和を
 苦しい毎日を 耐えぬいたわたしら 生命を生み育てる 世界の母の願いは
  花には太陽を 子どもらには平和を

「貧しい暮らしにも・・・」「進みゆけ娘ら・・・」などの歌詞は、今の人には共感しにくいものかもしれませんが、我々には胸にこみあげてくるものがある歌です。1959年の国際婦人デーに向けてつくられた歌ですね。





黄色い扉 第9号(1973年5月発行) その5

名大児文研機関紙「黄色い扉」の振り返りです。1973年の5月号ですが、内容が充実している、というか、児文研は当時様々な問題が持ち上がっていて、話題に事欠かなかったということかもしれません。今回は8ページ分、記事としては二つです。どちらも「鏡が池活動」についての文章です。鏡が池というのは、名大の北西隅にあった池です。名は美しいが実態は工学部の排水によって汚染がひどいという噂でした。大きさは50m×100mぐらいはあったでしょうか。雷魚が棲息しているらしいということでしたが、たしかに鏡が池の向かい側にあった自分の下宿、4階の自室の窓から雨の日などには、なんだかばかでかい生き物がうねうねと水草の上をのたうち回っていたように思います。本当に雷魚だったのかどうかはわかりませんが・・・。で、黄色い扉の「鏡が池活動」というのは、この鏡が池の主を捕まえて正体を暴く取り組み・・・というわけではなく、鏡が池の西側にあった団地・・・一部は名大職員の官舎だったか・・・の子どもたちを組織して子ども会活動をしようという取り組みのことです。

自分は「鏡が池活動」についての印象というか記憶はあまりありません。地域班はいろいろと取り組んでいたのではないかと思います。まあ、今回の二つの記事でも、創造班と地域班の相互理解とか創造班の取り組みの強化というようなことが論じられている、ということは、創造班の僕が、鏡が池の記憶をあまり持っていないということと無関係ではないでしょう。つまり創造班にとってはしっかり取り組めていなかった面があるという事実を表しているのだと思います。

さて、記事ですが、一つは機関誌を作っていた「書記局」のメンバーが、なんとか鏡が池活動の問題を、サークル員のみんなに考えてもらおうということで、何人かのサークル員に聞き取りを行ったものをまとめたレポート。

そして、もう一つの記事は、当時4年だったガジマ氏が出してくれた資料で、ややこしいのは、前書きはこの黄色い扉が発行された1973年5月に書かれたものですが、本文は1972年(昭和47年)3月に創造班が鏡が池問題を討議する際に使われた資料だということです。さらに、その資料の内容は、その前年や、前々年、つまり1971年や1970年のころの経過をまとめているものなので、どの時点での話なのかをしっかり読み取る必要があります。まるで古文書を分析するかのごとき複雑さです。しかし、よく読んでいくと、当時のサークル員のおかしいぐらいに未熟だが真摯な議論に感心してしまうのです。

 

黄色い扉 第9号(1973年5月発行) その4

あけましておめでとうございます。こちらは曇り空、今にもみぞれが降りそうな、そんな天気です。まだ雪は降っていません。でも、学生時代は、正月は雪の中というのが普通だったので、雪がないのは少し寂しくもあり、気候変動が心配でもあり、という感じです。やっぱり、正月は雪の中こたつに入って年賀状を見る、だよなーなんて思います。さて、70年代に発行されていた名大児文研の機関誌「黄色い扉」を振り返っております。今回は第9号の3回目。JUMBOの「レポートにならないレポート」(ちょっと印刷が悪くて読みづらい)、ハカセの「第5回愛知子どもまつりを終えて」、「ひさえちゃんからのおてまみ」などが掲載されている部分です。

 

黄色い扉 第9号 (1973年5月発行)その3

名古屋大学児童文化研究会の過去を引っ張り出しております。1970年代に発行していたサークルの機関紙「黄色い扉」を紹介しているのですが、1973年はわりと頑張って発行していたのだなと思います。ページ数が多い!

今回は(このところちょっと忙しくて、前回からだいぶ日にちが立ってしまいました。前回のブログを書いたときは、まだ晩秋のたたずまいだったのに、今日は本格的な雪の日なのです)、前回の1973年度新入生紹介の続きです。高島佐代子さん、牛田恵子さん、ガンタ、ヤッコ、サッサ、チョンボの6人分。なかなかおちゃめな文章になってます。

 

黄色い扉 第9号(1973年5月発行)その2

「黄色い扉」の振り返り、第9号の2回目です。今回は、新入生の自己紹介文、ロンさん、ドンドン、ハッチの3人。ドンドンは、ジョージ秋山少年マガジンに連載していた「ほらふきドンドン」の主人公、丼鈍心(どんぶりどんしん)からきています。この部員君、この丼鈍心というキャラクターに似ている!ということでつけられたニックネームですが、まあ、そういえばそうだという感じでした。どんぶりどんしん=ドンドンは、いつもほらをふいている豪快で心優しい人物、という設定ですが、彼の放つ「ほら」は、単なる大嘘ではなく、社会、世間の中に潜む矛盾や悲哀などを皮肉り笑い飛ばすといった、そんな感じもするのです。このドンドン君が後々、教育法の研究者になるのは、ある意味このころから予定されていたのかもしれません。

なお、ジョージ秋山は「アシュラ」「銭ゲバ」などといったセンセーショナルな作品を出す一方、「浮浪雲」というほのぼのとした作品も残しています。

なお、ロンは麻雀用語から、ハッチはおそらく「みつばちハッチ」からだと思われますが、確かなことは不明です。

 

黄色い扉 第9号(1973年5月発行)その1

名大児文研機関紙「黄色い扉」の振り返りに戻ります。発行日は1973年5月22日になっています。前号が4月発行でしたから、1か月後に発行です。しかも、この号の全体を見てみると、前号に引き続いて結構充実している。頑張ってますなーという感じですが、この頑張りも、継続させるのはなかなかです。

目次を見ると、新入生紹介、児童文学講座レポート、愛知子ども祭りを終えて、ひさえちゃんからの”てがみ”、局説「Ka池活動について」、Ka池問題に寄せて 特別投稿?学習資料?、自由投稿・・・となってます。多彩です。

今回は、表紙、目次、新入生紹介ウータン編を紹介します。

 

綱領

名大児文研の発行していた「黄色い扉」の振り返りは、今回ひと休みして、ここしばらく書いてきた1973年発行の「黄色い扉」に書かれていた「名大児文研綱領」についての振り返りです。綱領がつくられた経緯は、1960年代のことなので、もう一度調べてみないとわかりません。1971年入学の僕たちには、先輩から詳しい説明があったわけではありません。あったけど忘れてしまったのかも、とも思いますが・・・記憶がないです。今回スキャンしたものを掲載するのは、1975年(昭和50年)につくられた「綱領・規約」です。青刷りですね。このころにもまだ青刷りを使っていたんだと、ちょっとびっくりです。「湿式コピー(青焼き・ジアゾ式複写)」などとも言っていましたが、紫外線に当たっていると、徐々に脱色して読みづらくなるのです。この冊子は段ボール箱の底に入っていたせいか比較的色が残っていますが、もともと全体が青かったので読みづらいことこの上なしです。

規約というのがついています。よく読んでみると<前文 本規約は1975年3月31日の名大児童文化研究会佐久島合宿において出席者11名の満場一致で決定された>とあるので、「規約」は、それまでは無くて、新たにつくられたもののように思います。佐久島合宿・・・懐かしい!)付則に、発効は昭和50年3月31日となっているので、即日発行となったようです。綱領部分だけは全文打ちなおして紹介しましょう。

綱領

一、私達は児童憲章にのっとり、明るく、強く、仲間の中に自己を位置づけて生きることのできる子どもを育てます。

一、私たちは子どものしあわせを願い、子どもの幸せをはばむあらゆるものを打ち破る人間性豊かな活動をします。

一、私達は子どもの幸せを願う全ての人達と手をとりあって児童文化運動をすすめます。

一、私達は健全な児童文化と、民族的民主的文化を追求する活動をします。

一、私達はあらゆる人々から学び、それを自己形成に役立て、立派な社会人となることを目的とします。

青刷りをスキャンしたものがこちら👇