名古屋大学 児童文化研究会 (名大児文研) OB

名古屋大学児童文化研究会のOBが作るブログです。1960年代から1970年代にかけての写真や資料を紹介します。

黄色い扉 第9号(1973年5月発行) その5

名大児文研機関紙「黄色い扉」の振り返りです。1973年の5月号ですが、内容が充実している、というか、児文研は当時様々な問題が持ち上がっていて、話題に事欠かなかったということかもしれません。今回は8ページ分、記事としては二つです。どちらも「鏡が池活動」についての文章です。鏡が池というのは、名大の北西隅にあった池です。名は美しいが実態は工学部の排水によって汚染がひどいという噂でした。大きさは50m×100mぐらいはあったでしょうか。雷魚が棲息しているらしいということでしたが、たしかに鏡が池の向かい側にあった自分の下宿、4階の自室の窓から雨の日などには、なんだかばかでかい生き物がうねうねと水草の上をのたうち回っていたように思います。本当に雷魚だったのかどうかはわかりませんが・・・。で、黄色い扉の「鏡が池活動」というのは、この鏡が池の主を捕まえて正体を暴く取り組み・・・というわけではなく、鏡が池の西側にあった団地・・・一部は名大職員の官舎だったか・・・の子どもたちを組織して子ども会活動をしようという取り組みのことです。

自分は「鏡が池活動」についての印象というか記憶はあまりありません。地域班はいろいろと取り組んでいたのではないかと思います。まあ、今回の二つの記事でも、創造班と地域班の相互理解とか創造班の取り組みの強化というようなことが論じられている、ということは、創造班の僕が、鏡が池の記憶をあまり持っていないということと無関係ではないでしょう。つまり創造班にとってはしっかり取り組めていなかった面があるという事実を表しているのだと思います。

さて、記事ですが、一つは機関誌を作っていた「書記局」のメンバーが、なんとか鏡が池活動の問題を、サークル員のみんなに考えてもらおうということで、何人かのサークル員に聞き取りを行ったものをまとめたレポート。

そして、もう一つの記事は、当時4年だったガジマ氏が出してくれた資料で、ややこしいのは、前書きはこの黄色い扉が発行された1973年5月に書かれたものですが、本文は1972年(昭和47年)3月に創造班が鏡が池問題を討議する際に使われた資料だということです。さらに、その資料の内容は、その前年や、前々年、つまり1971年や1970年のころの経過をまとめているものなので、どの時点での話なのかをしっかり読み取る必要があります。まるで古文書を分析するかのごとき複雑さです。しかし、よく読んでいくと、当時のサークル員のおかしいぐらいに未熟だが真摯な議論に感心してしまうのです。